遅れてきた者と引用の花束

遅延者

私は1959年生まれの男性です。幼少期は高度成長期の真只中で、小学5年生で迎えた70年の大阪万博以降、バブルをはさみながら日本は成長期の峠を過ぎました。私が大学生活を過ごした80年代は、繁栄を誇りながらも70年代に比べてどこか色あせているように思われ、80年台の末には「スカ」と総括する評論家もいました。
私が現代芸術になじみ始めた70年代の後半には、「芸術において新しいことはやりつくした」と言われ、私も自身をどこか時代に遅れてしまった存在だと思うようになりました。このことは私だけではなく、同じ世代の者が大なり小なり感じていたことだと思います。またこれは文化的な事柄だけではなく政治や思想においても、敗北した学園・政治闘争の残影を見せられているような時代でした。
私のいた大学は、若干時代に取り残されている面があって、他の大学ではほとんど見られなくなった学生運動が活発で、新左翼系と共産系の小競り合いも見られました。しかし多くの学生にとって、これらの行動は「お笑い」にしか見えず、どちらかというと嘲笑をもって迎えられていました。学生が興味を持っていたのは、ファッションや音楽を消費することでした。またアニメやマンガがサブカルチャーとして、その存在を知らしめ始めた時代でもありました。
私のいた大学は福祉系で、国際障害者年の一年目ということもあり、ボランティア活動が盛んでした。そこには政治闘争に行き場を失った人たちが、障害者の自立や解放を掲げて、新しい闘争をもくろんでいるように思われました。彼らはいわゆる「団塊の世代」やその後継者たちで、彼らは私たちの世代に対して「やる気のない何を考えているか判らない」存在として見ていました。私はその意見に一定の賛同をしつつも、なにか自分の感覚とずれているもの感じました。私自身もボランティア活動を行っていましたが、ある友人からボランティアをしていることを別の学生に告げると、お金にならないことをしていると、馬鹿扱いされたことを聞きました。なにかこの時代の雰囲気を象徴している言葉のように思えました。
私はそういった「政治の時代」の世代が好む芸術や音楽の存在を知りました。それらの作品が差別や抑圧に対して告発する姿勢に共感を覚えたものの、既存の芸術のスタイルに囚われている保守的な感じがあまり好きになれませんでした。一方そういった主張を持たないような芸術に、時代のリアリティを感じました。私はこの理屈の世界と自身の感性の齟齬にずっと違和感を感じ続けることになりました。私はこのなかにあって、過去の文学や芸術に懐古的に親しみつつ、一方で姿を現し始めたテクノミュージックやサイバーパンクの先端にも興味を持っていました。

新しさの崩壊と引用の発見

近代以降の思想に顕著なのは、「オリジナリティ」という言葉だと思います。先行するものとは違う新しい存在。過去は昇華され常に新しい存在によって更新されていくことが理想でした。しかしこの考えは20世紀の後半には行き詰まります。思想・経済面では資本主義を弁証法的に克服すると言われた社会主義・共産主義は、自家中毒的に挫折し、文化面では資本主義社会より後退します。新しさを追求し続けた前衛芸術は、いろいろな方法をやりつくし、前衛の先端と思われた人たちが、伝統的な手法に後退してしまいます。
そもそも「オリジナリティ」は近代思想が生み出した「病」のようなものでした。どんなに新しいものでも、つねにそこには過去の烙印が押されています。一見新しいと思われたものに、過去の問題が刻み付けられており、それは時として新しさをひっくり返す時限爆弾のような存在でした。
この新しさの行き詰まりから現れてきたのが「引用」でした。歴史上の新しい考え方は、過去の引用から成り立っている場合が多いです。古代ギリシャに範を求めたルネサンス。聖書の原点に返ることを望んだルター主義。革命を「復古」の名で行った明治維新。それらは失われた歴史のなかに栄光を見つけ出しました。これは私たちの作り出すものには、常に「先例」があるというある種の諦念から生み出されたものでした、しかしこの諦念はあきらめではなく、いわば一度後退することにより、その反動で前にジャンプするような行いでした。

引用を素材にして

「引用」を積極的に使った作品が現代芸術には多くあります。以下そういったものを紹介してみます。

ロイ・リヒテンシュタインの場合

ロイ・リキテンスタイン(1923~97)はアメリカの美術家です。最初は抽象表現主義(*1)のスタイルで絵を描いていましたが、そういった表現に飽き足らず、コミック雑誌の1コマを引用して絵画化する作品を書くようになりました。引用するといってもそのまま写すのではなく、構図を若干改変し、太い輪郭線を使い、色彩は3原則に限定し、陰影をドットで表現するものでした。この作品で同時代のアンディ・ウォーホール(1928~87)共にアメリカのポップアートを代表する存在になりました。その後その技法を拡大し、古典絵画や彫刻作品の引用も行うようになりました。
彼があるインタビューで興味深いことを語っていました。作品を書く際に元の作品のイメージに捉われないために、書く際にはキャンバスを逆さにして書いていたそうです。画家の中では抽象芸術として作品を捉えていたようです。

「ヘアリボンの少女」(1965)
【画像引用 BKKC】

ベルント・アロイス・ツィンマーマンの場合

ベルント・アロイス・ツィンマーマン(1918~70)はドイツの作曲家です。初期は新古典主義(*2)的な作風でしたが、カールハインツ・シュトックハウゼン(1928~2007)などの若い作曲家に影響を受け、システマティックで前衛的な音楽を作曲するようになります、しかしあまりにも数理的な操作で書かれた戦後世代の書き方が受け入れられず、前衛的な手法に古典音楽の引用をちりばめた独自な作風を展開します。しかし批判しながら一方でその方法を使い、なおかつ引用をする作風は若い作曲家から「折衷主義」として嘲笑されます。彼のこの矛盾に苦しみ、自らの死を選びます。
しかし彼の死後、前衛的なスタイルは行き詰まり、彼の折衷的とされた作風は、ポストモダン思想による捉えなおしが行われ、「多様式主義」として再評価されます。彼は自分の死後このような事態になることを、どう思っているのでしょうか?
ベルント・アロイス・ツィンマーマン

【画像引用 Amazon】
この作品は彼の代表作です。前衛的なスタイルの音楽にベルリオーズやワーグナーの旋律が引用され、最後に彼が敵視したシュトックハウゼンの音楽も引用し、さらに罵倒する言葉が語られています。

すべての存在は引用である

ネットなどを見ていると、「パクリ」かどうかということが良く書かれています。著作権の問題があるので、こういったことは仕方がないのかもしれません。しかし著作権も含めて独自性のこだわるのは、実は近代が陥った「病」のようなものなのかもしれません。例えばバロック音楽において、他の作曲家の作品を取り上げて編曲することが良くありました。この際に原作者に対して報酬や確認が行われることありませんでした。むしろ取り上げられることを名誉なこととして捉えていたようです。
最初に私は自分が遅れてきた存在ではないかと書きました。しかしそれは近代の所有概念が生み出した幻想が導き出したもののような気がします。もちろん今更所有の概念を全否定することは出来ませんが、私たちは「引用」を通してもっと柔軟に物事を考えても良いのではないでしょうか。
思えば私たちの生命そのものも、DNAという引用の網の目に形作られたものです。しかDNAはあくまで、生命の端緒であって、そこから生み出された新しい命は、交配を続けながら別のものに変異していきます。ある意味私たちの文化的な営みは、これを「引用」したものに過ぎないのかも知れません。

*1 抽象表現主義
抽象表現主義
*2 新古典主義
新古典主義

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local_offerevent_note 2020年12月25日
  • スピノザ

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