仮想現実と現実の狭間で 3

人間にとって「善悪」(「正義」)とは

ここまで読んだ方は、なにか取り留めない感じを抱いた方もいるかもしれません。私自身、最初は「炎上」問題を通して、ネットリテラシーについて注意喚起をするような短文を書こうと思ったのが最初の考えでした。特に誤解によって生じる問題に対して、慎重な態度で臨むことについて書くつもりでした。
しかし色々調べていく内に、単純に誤解で起こる問題ではなく、人間社会の「規範」に関わる問題がそこにあるように思いました。
私のこの文章を書こうと思ったときにたまたま三つの映画や文章を観ました。内容に関しては賛否両論が分かれる面があるので詳しく書きませんが、ひとつは日本軍の戦時中の行動に関するもの、ひとつはカルト系宗教に関するもの、ひとつはナチスの残虐行為に関するものでした。それらには共通した傾向があり、いずれも非常にナーヴァスな論点を取り上げており、その結果としてそれぞれの当事者から、全否定と言っても良い非難にさらされたことです。
これらはいずれもネットが存在する以前に起こった事柄でした。しかし問題の本質が「炎上」に似ており、そのことが私にネット問題はネットだけ見ていても見えてこないことに気が付きました。
社会的な問題が散り扱われる際、それが深刻な問題であるほど、対立するお互いの立場に譲歩がなく、相手の人間性まで貶めるよう非難合戦になることがよくあります。その度に人はなぜそういった不毛な論争に入り込んでしまうのかと思っていました。
一方で自分自身にもそういった面があることを自覚しており、そのことに苦しんだこともあります。私は上記の様に経験を通してそれに陥る過ちを避けるように努力して来ましたが、そういった経験をしても、いやむしろ経験によってより考えが固定化する人もよく見てきました。私たちはこのことをどう考えていったらよいのでしょうか?
ここまで読んで下さった方には申し訳ないですが、この文章に結論はありません。そもそもここで結論が出せるような問題であれば、世の中の争いごとはとっくの昔になくなっていることでしょう。
ここで最初の問いかけに戻ります。そもそも多くの情報をどうするのかが、最初の問いかけでした。ネット情報の問題点について書いた文章の頭に、情報が社会を豊かにした側面について触れました。そのことの一番の利点は、これまで専門家にのみ知られていた情報が広く一般に開放されたことです。
一方でそのことがネットに関わる問題が拡散する原因にもなりました。
これは情報がもたらすふたつの側面であり、おそらくどちらかだけを取り出して解決できないような問題の気がします。
ここまで書いてたどり着いたのは、私たちはその善き面を活用し、悪しき面をいかにして活用しないようにするかという、ある意味陳腐にさえ思える結論ともいえない結論です。
ここからはそれぞれが考えてみて下さい。これがひとつの「結論」です。

参考文献
映画「主戦場」ミキ・デザキ監督
「A3」森達也(集英社文庫)(無料配信の電子書籍あり)
「エルサレムのアイヒマン」ハンナ・アーレント(みすず書房)
『ハンナ・アーレント』森分大輔(ちくま新書)

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local_offerevent_note 2019年12月13日
  • スピノザ

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