音楽と社会の関りについて(1)

はじめに

この記事は2人の作曲家(古関裕而とD・ショスタコーヴィチ)の生涯を通して、音楽が社会にどう向き合ってきたのかを考えたものです。

古関裕而( 1909~89)の場合

【画像引用 福島りょうぜん漬公式ホームページ】
古関裕而は戦前から戦後にかけて活躍した作曲家です。最近NHK連続TV小説「エール」のモデルとして取り上げられ、それで名前を知った方も多いと思います。独学で作曲の勉強を行い、1930年コロンビアレコードの専属作曲家になりました。古関の努力にも関わらず最初はヒット曲を出せませんでしたが、軍歌とスポーツ音楽の作曲を行うようになってから、立て続けにヒット曲を出すようになりました。軍歌では「露營の歌」(1937)「暁に祈る」(1940)、歌謡曲では「鐘の鳴る丘」(1947)「イヨマンテの夜」(1949)、スポーツ音楽では「阪神タイガースの歌(通称「六甲おろし」)」(1936)「オリンピック・マーチ」(1964)映画音楽では「モスラ」(1961)などが現在でも知られています。亡くなるまでヒットメーカーとして名をはせ、同じ時代を生きた作曲家古賀政男(*1)と並ぶ存在でしたが、名前の知れ渡った古賀に比べ、曲はヒットしても古関の名前は浸透せず、「エール」で取り上げられるまでは、忘れられた存在になっていました。
元々クラシック系の作曲家でしたが、昭和の初めの日本でそういった音楽はあまり受け入れられず、生計を立てるために大衆音楽の作曲家になりました。しかし大衆音楽を低く見ていた訳ではなく、クラシックな手法と大衆的に好まれる音楽をひとつにすることが古関の願いでした。しかし小唄や端唄や、情緒的な音楽が好まれる当時の日本の音楽界で、古関の思うような機会はなかなか訪れませんでした。

この状況を変えたのは、日本が戦争に突入したことでした。マーチを主体とした勇壮な軍歌は、これまで大衆音楽を書いてきた多くの作曲家にとっては難しいジャンルでした。しかしクラシック音楽を得意とする古関にとっては、自分の才能が発揮できるジャンルで、数々の有名な軍歌を産み出すことになりました。
古関は思想的には国粋主義者という感じではなく、どちらかというと芸術至上主義者という感じの人でした。古関にとって自分の腕が振るえるものとして軍歌を捉えていたと思います。とは言うものの古関も時代の子でしたから、日本の勝利を信じて国に尽くしているという実感はあったと思います。
ただ特筆すべき点は、軍部は勇壮で長調の明るいメロディを期待していたのに対し、古関が作曲したの、勇壮な中にも戦争に向かう気持ちを、むしろ哀愁を帯びた短調を駆使した曲を書き続けたことです。そして大衆は軍部が望んだ曲ではなく、古関の書いた曲の、戦争への覚悟をこめたメロディーに心を揺さぶられました。
古関は戦後自分の書いた軍歌が国民を鼓舞した半面、曲を聴いて戦場へ向かった多くの若い人たちが無くなったことに割り切れないものを感じたそうです。ある時古関は軍の依頼で兵士の慰問を頼まれ、兵士たちの前でスピーチを頼まれたことがありました。しかし古関はこの兵士たちが死地に向かうことを感じ、言葉があふれてしまい、ただただ泣いてしまったそうです。しかし兵士たちはこの姿に打たれ、みな泣き出してしまったそうです。
戦後、軍部に協力した芸術家はその行動を非難され、戦争画を書いた藤田嗣治(*2)のように 日本に居づらくなり、パリに定住することなった人もいました。多くの軍歌の歌詞を書いた詩人の西城八十(*3)もその行動を問題視されたことがありましたが、彼の作品に曲をつけた古関共々、結局非難されることはありませんでした。むしろ戦後「長崎の鐘」のような原爆をテーマにした曲を書くなどして、古関なりの音楽を通して償いをしたことが大きかったと思います。その後古関は、スポーツ音楽、映画・TV・ラジオ音楽、社歌、校歌、ミュージカルなど、あらゆるジャンルの音楽を書き続けました。この実績に対して様々な叙勲を受け、国民栄誉賞も検討されたことがあるそうです。

この古関の経歴に対して、特に軍歌に大きく関わった点に関して、批判的な声もあるようです。しかしこの時代において、戦争に関わらずに生きていくのは難しく、また戦後反戦を訴える思想家や芸術家でも、戦時中は軍国少年だったことを悔やんでいることも多くあり、現在の時点からこれを批判するのは少し酷なような気がします。むしろ戦争中、戦争賛美を繰り返したにも関わらず、そのことに口をつむり、戦後に民主化や反戦を声高く訴えた作家や芸術家(*4)になにか誠実さに欠けるものを感じます。確かに戦争の協力を反省した古関の言動は、戦後社会を生きていくために「言わされた」面もあったかもしれませんが、なによりも古関の音楽を聴けば、矛盾と煩悶をそこに感じることが出来ると私は思います。
晩年は「オールスター家族対抗歌合戦」(*5)の審査員を務めましたが、筆者にとっての古関裕而は、この時のいつもニコニコとしているお爺さんの印象が一番残っています。
ちなみに筆者の古関裕而のマイベストは「モスラの歌」(1961)と「イヨマンテの夜」(1949)です。

*1 古賀政男
古賀政男
*2 藤田嗣治
藤田嗣治
*3 西城八十
西城八十
*4 作家や芸術家
例えば、小説「橋のない川」(1959~92)で著名な、住井すゑ(1902~97)の言動が挙げられる。戦時中軍部に協力的な文章を多く書いていたにも関わらず、その事実を隠し軍部に反抗していたような言動を行い続けた。しかし1995年戦前の資料によりその点を指摘されると、「ほほほ……何書いたか、みんな忘れましたね」「書いたものにいちいち深い責任感じていたら、命がいくつあっても足りませんよ」と言ったことがある。
*5 オールスター家族対抗歌合戦
1972年10月1日から1986年9月28日までフジテレビで放送された、芸能人とその家族による歌合戦番組である。全699回。司会は萩本欽一が行った。(Wikipediaより引用)

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local_offerevent_note 2020年8月21日
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