映画「MINAMATA」を観て

水俣病の歴史

【画像引用 ジャパニーズクラス】
1931年、熊本県水俣町(現・水俣市)にある日本窒素肥料株式会社(チッソの前身)水俣工場の技術者が、カーバイドからアセチレンを作り,これを水銀触媒に使ってアセトアルデヒドに変える一連の合成方法を発明した。アセチレンの付加反応に金属水銀や昇汞(塩化水銀の別名)を用いており、目的の反応生成物を取り除いたあとの工業廃水を無処理で水俣湾に排出していた。そのため、これに含まれていたメチル水銀が魚介類の食物連鎖によって生物濃縮し、これらの魚介類が汚染されていると知らずに摂取した不知火海沿岸の熊本県および鹿児島県の住民の一部に「メチル水銀中毒症」がみられ、これが水俣病と呼ばれることとなった(Wikipediaから抜粋して引用)。水俣病は後に、第二水俣病(新潟水俣病)、イタイイタイ病、四日市ぜんそくと共に四大公害病と呼ばれるようになりました。
最初は魚を食べた猫がけいれん発作を起こしていましたが、次第に人間にも同様の症状が出るようになり、また胎児に感染(胎児性水俣病)するなどして、次第に被害が広がっていきました。チッソは自社の廃液が水俣病の原因であることを内部の研究から判っていたにもかかわらず、その事実を隠蔽し排出を続けました。
水俣病は「奇病」として捉えられ、当初は「戦時中に投下した水中の爆雷から滲み出した火薬が原因」や「腐った魚による中毒症状」などと言われました。特に後者の説は、市民の漁民に対する差別感情に結び付き、患者の子どもがいじめられるなどの弊害を生みだしました。
しかし1959年熊本大学水俣病研究班が、廃液の有機水銀が原因であることを発表しました。しかしチッソはそれを認めなかったため、患者による裁判闘争が行われるようになりました。上述の差別意識とチッソによって水俣市の経済が潤っていたため、市民は裁判闘争に対して批判的な姿勢を取っていました、しかし次第に水俣病の発生が、漁民から一般市民にも広がるにしたがって、市民感情にも変化が現れるようになりました。
その後も長い裁判闘争が行われ、患者側の意見が取り入れられ、チッソ側も原因であることを認め、多額の賠償金が払われ、福祉的制度も作られました。しかし患者の認定作業が遅々として進まず、裁判によって行政の怠慢が認められたにも関わらず、現在に至るまで改善されていません。水俣病という名前自体を知らない若い人も増えてきていますが、現実は未だ解決とは言えない状況が続いています。

胎児性水俣病患者の坂本しのぶさん
【画像引用 西日本新聞】

映画「MINAMATA」

【画像引用 ニフティニュース】
これまで土本典明(1928~2008)監督の手によって多くの水俣病のドキュメンタリー映画が作ら、それらの作品が水俣病の存在を世間に伝えてきました。しかし水俣病の存在を世界中に知らせたのは、ユージン・スミスが発表した写真集「水俣」の存在でした。映画「MINAMATA」はユージン・スミスと水俣の人たちの物語です。
映画は事実を踏まえつつ、フィクションも織り交ぜながら進んでいきます。ユージン・スミスと妻のアイリーン・スミスは実在の人物ですが、それ以外の人物は多くの患者さんからインパイアスされて作り出されました。
映画は仕事への行き詰まりから、アルコールと向精神薬漬けになっていたユージンを、後に妻になるアイリーンが、水俣へ行くことを勧めたことから物語は始まります。「写真を取ることは、撮影した者も、された者もともに傷つける」というユージンは、迷いながらも水俣の人たちに近づいていこうとします。マスコミによって傷を負ってきた患者さんたちは、最初はユージンに対して懐疑的で、撮影も拒んでいました。しかし彼の誠実な関わりや、利害関係のないアメリカ人であるとういことで、次第に心を開き写真を撮ることを認めるようになります。
ユージンは抗議闘争の写真を撮影した際に、企業のボディーガードから暴力を振るわれ(実際にあったことで、これが遠因で彼の死期を早めたとされています)などの様々な妨害を受けます。映画は彼の迷いや水俣病から離れようとする葛藤も描いており、彼を単なる「ヒーロー」として描こうとはしていません。
映画のクライマックスは、当初撮影を拒んでいた女性の胎児性患者の家族が、撮影を受入れ、母親に抱かれて入浴した様子が撮影されたことです。この写真は実際に撮られたもので、水俣病を世界に知らせたシンボルとなりました(*)。
映画は世界中に存在する多くの公害病・自然破壊・原発事故による被ばくを紹介し、水俣病が過去の事柄ではなく、今も存在する現実であること静かに語って終わります。


写真集「水俣」より
【画像引用 個人ブログ】

私と水俣との関り

映画のモデルになったユージン・スミス
【画像引用 個人ブログ】
私は大学生だった80年代前半の頃、水俣病の患者運動と関わったことがありました。きっかけは当時患者団体の主催で、2週間水俣で援農を行いながら、患者さんと話し合いの場を持ち、水俣病の学習を行うというものでした。ある雑誌で紹介されていたもので、なにか新しいことをしたいと思っていた私は、すぐに申し込みをしました。
九州へ行くこと自体が幼いころ依頼で、運賃を節約するために夜行の船を使って行きました。小倉からJRに乗って行ったのですが、乗客の語る言葉を聞いて「熊本弁って良いなあ」と思っていると、熊本から八代市を超えたあたりから、何をしゃべっているか判らなくなり、同じ熊本でも随分言葉が違うのだなあ、と思いました。
水俣市は有明海に面した街ですが、海の色が黒っぽく、ふだん見慣れている瀬戸内の海とはかなり趣が違いました。駅を降りると真正面にチッソ水俣工場があります。昭和天皇が来られた時は、駅から工場正面出口まで赤いじゅうたんをひいて出迎えたそうです。
患者団体が使う事務所の広間が宿泊所になりました。昼間は学習の場として使い、夜間は布団をひいて雑魚寝状態で宿泊しました。到着時にはガイダンスが行われ、その後初日の援農農家が決められたように憶えています。参加者は老若男女様々でしたが、大学生が最も多かったように思います。また夏休みの時期だったので中学校の教師が生徒3人を、引率して来ていました。また障害者の方が介助者を連れてきていました。
学習会では水俣の歴史を座学で学びながら、映画「水俣-患者さんとその世界」(1971)を観ました。映画は水俣病の歴史、患者さんの日常生活、チッソの株主総会でお遍路の衣装をつけた患者さんと支援者によって御詠歌が詠われるさま、などが映し出されました。しかし私が最も印象に残ったのは、漁師による蛸漁の様子でした。
援農は60代ぐらいの患者さん夫婦のところで行いました。当時水俣で勧められていた、ミカンの手伝いをしたように思います。それほど長い時間働いてはいなかったのに、作業後これ以上ないぐらいの量の食事で歓待してもらい、少し申し訳なく思いました。後にある人から聞いたのですが、田舎ということもありますが、少しでも支援者を繋ぎ留めたいという気持ちの表れであると言われ、さらに申し訳ない気持ちになりました。私たちのグループはその夫婦に気に入れられたみたいで、本来であればその後は別の農家に行く予定だったのですが、たっての願いということでそこでの援農を継続することになりました。
全体で行われる援農もあり、田んぼの稗取りと、開墾作業が行われました。稗取りは事前に稲と稗の違いを教えてもらっていたのですが、実際に見てみると違いがよく判らず、私も含めて多くの稲が抜かれてしまいました。開墾は荒れ地にある木の根っこを抜き取る作業が中心でした。数人がかりでやっても全然抜けなかった木の根っこを、支援者の人があっという間に抜いてしまったこともありました。夏場の援農は体にこたえ、その後のスライド上映を伴う学習会に際に、多くの方が寝てしまうという失礼な事態にもなりました。
漁船にのり無人島でキャンプを行い、星空を見ながら寝たりもしました。また1日が終わると必ず飲み会がありました。水俣ではみな焼酎を飲むのが一般的でした。飲まない者とは話をしたくないという患者さんもおり(今ならアルハラですが)、とにかく私も懸命に飲んでいました。
終了後は上記のように男女交えての雑魚寝で(これも今なら問題になると思いますが)、酔っぱらってそのまま寝てしまい、朝を起きたらとんでもない場所で寝ていたこともありました。こういう状況ではみな精神状態がナチュラルハイになり、恋愛関係になった人も多かったようです。
多く人にとって、患者さんとの出会い以上に、援農や自然との触れ合いの方がカルチャーショックで、主催団はそこから1年がかりで行う取り組みを始めることにもなりました。
都会育ちの私にとっても、ここでの経験はかなりのカルチャーショックでした。その後、大学の助教授が過去に水俣の支援者を行なっていたことをしり、その先生のゼミに入り、水俣に関する論文を書いたりもしました。
その後私は度々水俣を訪れるようになり、運動にも少し関わったりもしました。しかしその後様々なことがあり(ここには書けないことも含めて)、仕事についてからは時間も無くなったこともあり、次第に運動からは遠ざかって行きました。しかし水俣での出来事はずっと気にかかっており、新しい書籍を購入したり、報道に目をとめたりしていました。
映画「MINAMATA」はそれらのことを改めて思い出させてくれました。映画のモデルになった方や、さしはさまれる当時の映像に、私の知っている人の笑顔が映し出されていました。


映画のモデルになったアイリーン・美緒子・スミス
【画像引用 ブロガー】
最後に私の好きなユージン・スミスの写真を紹介します。「楽園への歩み」と題された作品で、ユージン・スミスの娘と息子を撮ったものです。ユージン・スミスと子どもの関係は、映画でも描かれているように、必ずしも良好な関係ではなかったようです。しかしこの写真から、子どもに対する愛情と幸福感、そして同時に言いようのない憧憬のようなものが映し出されています。ここに映し出された風景は、ユージン・スミスの原像だったのではないかと思います。

ユージン・スミスの作品「楽園への歩み」
【画像引用 美術手帖】
* この写真の発表にあたって下記のような経緯がありました
スミス夫妻が水俣へ移住した年の1971年12月に撮影された、胎児性水俣病の少女・上村智子(1956年 – 1977年)を母親が抱いて入浴させている写真「入浴する智子と母(Tomoko and Mother in the Bath)」は、ユージンの『水俣』の写真の中でも特に名高い1枚として知られる。ユージンはアイリーンとの連名で、『ライフ』1972年6月2日号に「Death–Flow from a Pipe: Mercury Pollution Ravages a Japanese Village」と題するフォトエッセイを寄稿。「入浴する智子と母」はこのときに初めて公表された。
「ピエタ」を思わせる構図の母子像は、写真展や水俣病についての書籍でもたびたび紹介されてきたが、遺族である両親とアイリーンの話し合いにより、1998年6月、「アイリーン・アーカイブ」では今後は同写真の使用を許諾しない方針であることが発表された。このため、ユージン生誕100周年を記念して2017年11月25日から2018年1月28日まで東京都写真美術館で開催された「生誕100年 ユージン・スミス展」でもこの有名な写真は展示されることはなかった。
この「封印」に対しては、写真家や美術館関係者などから様々な意見があり、当該写真を所蔵する清里フォトアートミュージアムの広報担当者は「自分はこの1枚に出会って水俣病や現代の世界につながる環境問題に関心を持つきっかけとなったので、ぜひ多くの人に見てほしい」と語り、同館の学芸員は「この件は国際会議でも話題になっており、海外の所蔵館の中には展示できなくなるのなら購入費用を弁済してほしいという声もある」と述べた。また同館館長の細江英公は「日本の著作権法では著作者の許諾に関係なく、美術品などの現所有者は作品の展示ができるし、教科書に掲載することも可能である」と指摘した。
また水俣でスミス夫妻と寝食を共にしながら、ユージンの助手を務めた石川武志は「(写真が)封印されたことがすごく残念だ。普遍性をもつこの母子像は人類にとって失ってはならない芸術作品だ。ユージンが生きていたら展示や掲載を望むと思う」と語り、アイリーンによるこの「封印」に強く反対した。
映画『MINAMATA-ミナマタ-』では「封印」された「入浴する智子と母」が使用されており、アイリーンは映画を見た後で「この写真を大切にするなら今何をするべきかと考えた時、『本物の写真を見せることだ』という結論」に達したと述べ、再刊する写真集で「入浴する智子と母」を含めた、上村智子の写った写真を掲載する意向を示した。(Wikipediaより引用)
裸体を本人の承諾を得ず載せたこと、象徴的存在として描かれることが、ある種の「美化」になってしまうこと(今なら「感動ポルノ」と呼ばれそうな)など、ユージンが述べた「写真を取ることは、撮影した者も、された者もともに傷つける」という言葉を体現したような出来事だったと思います。、

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local_offerevent_note 2021年10月8日
  • スピノザ

    フィットボクシングでダイエットしてます