私の妻が残した記録 震災編(5)

AFTER  EARTHQUAKE(続き)

今回は震災後しばらく経って書かれた短文を紹介します。

1月17日。生涯忘れえぬ日となった。多くの犠牲者を出した、大震災の日だ。
あの瞬間から私は変わった。おそらくあの時を体験した人は、少なからず人生観が変わったに違いない。
あの時から全てが自分の判断において動いていた。誰も周りを見る余裕などありはしない。私の判断が正しかろうが間違っていようが、それに従い動かなければならない。守らなければならないものが今ここにある限り、迷いなどしてはいられない。自分の様々な感情さえも、枝葉を切りおとしていかなくてはならなかった。でもそのおかげで今までチラチラとしか見えなかった、遠くの景色がすっきりと見渡せるようになった。こんなにも枝葉が繁っていたのだろうかと思えるけど、すっきりした。グチャグチャになった家の中のものを片付けながら、なくてもいらないものばかりが落ちてきたことに気づき、自分の生き方も同じことが言える。

みんな寝ています。おとうさんのいびきと2人の娘の寝息が聞こえてきます。私の大切な静かな時間です。
「ここ」へ住んで10年が経ちました。私の行動範囲も広がって、知り合いも多くなりました。「ちょっとサティ(現イオン)へ行ってくるね」と声をかけると、「○○(妻の名前)ちゃんのちょっとは1時間かかるもんね」と友達は冷やかしてくれますが、本当なんです。サティは私の社交場。1回うろうろすると、3人の知り合いと出会います。立ち話が3回で、私のおしゃべりは困りもの。でもこの人たちに日々支えられて、私は「ここ」で暮らしていけるのだと思います。
1年前のあの日神戸は壊滅しました。もう世界は終わりだなという思いが頭をよぎりました。どうやって行ったのか未だに思い出せないままですが、気がついたら上の娘の頭を抱えていました。お父さんは下の娘の上にすっぽりと覆いかぶさり、無事を確認しましたが、ふたりとも自分の重みで子供をつぶしてしまったのではないかと飛び起きました。幸い子供はショックも受けず平気でした。
子供を持ってから2人とも心の中のどこかで、自分だけ逃げるのではないかとの不安があり、「本当に子供が守れるのだろうか」思っていただけに、自分の取った行動に少しホッとしました。あの時も今もずっと変わらないのはすごい恐怖感です。真っ暗ななかで部屋はグチャグチャで、そこらにあったコートやら半纏やらを着込み外へ出ました。
足はガタガタ震えているし寒い。同じマンションの人たち数件がホールに集まり夜明けを待ちました。うっすらと明るくなるにつれて、近所のただならぬ様子が目に入ってきます。モルタルの壁が落ち、カワラが道いっぱいに散らばっている。おそるおそる家に入り、カーテンも開けて部屋を見渡せば、もう気が抜けてしまって心が空っぽになってしまいました。

暖冬にも関わらず、天気が気にかかる毎日です。大震災で開けた今年ですが、春の足音と共に、一歩一歩復興のきざしも感じています。この度の阪神淡路大震災におきましては、皆様にご心配おかけし、また暖かなご支援をたまわり、心より感謝しております。あれから2ケ月が過ぎましたが、私どもは落ち着き取り戻し元気で暮らしております。
被災した方全員が落ち着かれるのは、まだまだ先のことになると思いますが、たくましく生き返る神戸の姿を楽しみに、私達家族は出来ることから頑張ろうと思っています。ご心配頂いたことと、ご支援を賜りましたことことに、お礼を申し上げたくペンをとった次第です。被災されました方々並びに皆さまには、どうかくれぐてもお体をご自愛くださいますように。

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local_offerevent_note 2022年4月5日
  • スピノザ

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