私の妻が残した記録 震災編(4)

AFTER  EARTHQUAKE(続き)

この日から私は少し変になりかけた。不安が抑えきれなくなりそうだった。私の頭の中で、ふたりの子供をわたしひとりでどうやって助けよう。マンションの1Fにいることがすごく不安だった。そんな時に不安を増幅するようなTVの特集。マンションの1Fがグチャグチャにつぶれている。そして掛かってきた電話が「避難した方がいいよ」って。多分電話の主も状況を知らずにアドバイスしてくれたのだろうが、私には逆効果だった。このハイツの住人の何軒かは、夜中車の中で眠っている。不安を抑えることが出来なかった。
まわりはほとんどの人がご主人と一緒だった。悪いと思いつつ私はおばさんのところへ電話をした。がんばらなきゃと思っていても、受話器をつかんでいる。おばさんとて被災者だ。なのになにを聞いてもらおうというのだろう?自分がどうすれば良いのかが判らない。電話の向こうで困っている。そりゃあ当たり前、どうすることも出来ないのだもの。でも話していたら少し落ち着いてきた。しばらくして再びおばさんから電話があり、電磁調理器はないの?お皿にラップしたら汚れなくて良いとか、アドバイスをしてもらった。教えてもらうまでは気がつかないでいたからすごく助かった。

子どもは外へも出られず、私も忙しいのでかまってもやれず、時々グラグラっとくるたびに大声で「フトンのところへ行って」と叫ぶ。いつもお世話になる友だちさえも、現状では他人の子どもを預かるなんてできはしない。自分の子どもさえ守ってやれるか自信がないのに。1件の火事じゃないのだ、みんな自分しか頼るものはないという異常事態だ。へとへとだった。自分は負けられない。障害者であることがどんなに悔しかったか。そんな中で遠くいる友だちから、何回も掛けてくれたであろう電話が来る。電話の向こうから懐かしい声が聞こえる。ひとりじゃなかった。みんなの中に存在していたということ、忘れられていなかったことが、たまらなく嬉しかった。へとへとだけど優しい気持ちが広がってきた。
主人はこの間仕事でがんばっている。水も出ない、食べることもままならない、そんな中で大きな(福祉)施設は建っている。頼れるのは職員だけ。その職員だって被災して、家が全壊した人もいる。主人は今すぐにでも自分の両親を、こちらに連れて帰りたいだろう。私には何も出来はしない。主人の気持ちは痛いほど判る。自分の身内が命からがら逃げだして、今なお大変な中にいる。主人の以後とも何人かの命を預かっている大切なもの。とりあえず無事なことだけは確認できているが、それ以上は何もできないのでいらだっていた。
眠れない。誰か助けてほしい。お風呂場は水をためるための器でいっぱいだし、もしもの時のためにフトンは敷きっぱなしにしている。

「なにか連絡あった?」と聞くことが多くなった。3日目に入り水がない。食料も。心配はつのってくる。電話もこちらからは掛からない。そんな時お義父さんから電話が掛かった。「○○、○○(娘の名前)」とおじいちゃん(義父)が仰って、「いまから○○(筆者の名前)のところに押しかけよう」って言ってた。私は力ない(義父の)調子に、このままあの場所にいたら、大変なことになると思った。へんな気遣いや遠慮なんか頭になく、「よく聞いてくださいよ、いいですか、来れるなら今すぐにでもこちらへ来てください。○○(筆者の名前)さんも心配しています。電話が掛かればすぐ出て来いと(筆者から)伝えるように言われています。お願いですから聞いてください。私しか家にいないから○○(筆者の名前)に頼まれているんです」と叫んだ。お姉さん夫婦とそのふたりの息子さんがいるのは百も承知している。でもこちらは少ない量でも水が出る、ガスも出る、スーパーも、病院も。我が家で住めないなら近くのホテルでも泊まればいいじゃないか。全員顔を合わせることが出来れば、後のことは相談できるのだから。冷静ではなかった。でもその中で何が出来るかを考えていた。
自分の親にはなるべく心配させないようにと電話も掛けていたが、感じるのは状況の違いだった。とにかくこちらが異常なことを判ってもらいたかった。決算期であり(筆者注:妻の実家は自営業をしている)納税の時期であることも、年行って夫婦二人で商売をやっていく大変さも判っているが、こちらは1分先のことも考えられない状況にある。自分自身あちらは別の世界なのだと言いきかし、精一杯冗談も言ったりしていたが、こんなにも違うのかというのが本音だった。責めているのではない。子供を思い心配するのは当然だ。でも心配することと状況を考えるのとは別の問題なのだ。

近く来られるであろう6人のお客さん(筆者注:筆者の父母、姉夫婦と2人の息子)を迎えることはまず無理だろう。せめて食事だけでもたっぷりしてもらおうと、山のように買い物をしてきた。私はおかしかった。どうにかなりそうだった。スーパーで知った人や、年長者に声を掛けられるたびに、涙がこぼれそうになるのをこらえ「頑張らなきゃね」と言い合ってきた。
考えるといまなんとか動けるのは、自分の親だけしかいなかった。いつでもいい、近いうちに車で来てもらおう。白米でもなんでもいいから運んでくれるように頼もうと思い電話を掛けたが、なにか話しているうちに訳が判らなくなってきて、父になにか大きな声で泣きながら叫んでいた。タガが外れたのだと思う。「近く六甲から来るはずだから、なんでもいいから持ってきて、お米でもなんでもいいから。向こうのお父さんも疲れているようだから」と言うつもりだったのに言えなかった。こんな電話を受けた父はおそらく大変なことになっているんだろうと思ったのだろう。それは間違いではなかったのだけれど、お互い冷静になれなかっただけだ。
私の電話で父はその日のうちに車で来てくれて、米、お茶、ラーメン、ハム、卵、パン、おにぎりを、急いで用意してくれたのだろう。うれしかった。生もののパンとおにぎりは少々困ったが、それも私のお世話になっている友だちの元から、被災のひどかった地へとすぐに渡っていったのだから、充分役に立った。

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local_offerevent_note 2022年4月1日
  • スピノザ

    フィットボクシングでダイエットしてます