私の妻が残した記録 震災編(3)

AFTER  EARTHQUAKE(続き)

主人が「今は気が張っているから良いけど、長期に渡るとひどくなるから無理するな」と気遣ってくれる。主人とて仕事で疲れ、家でも手伝いや子供の面倒で大変で、しかも自分の生まれ育った街がメチャメチャになり、両親も姉夫婦もまだ六甲(灘区)にいる。相当のショックだろうと思う。
ほんの少しだけ眠っただろうか、今日1日どんなことになるのか不安だ。もちろんテレビは付けっぱなし。子供二人に{食べられる時に食べておきなさい、食べられなくなるかもしれないからね}と言わないといけないなんて。お茶も大人は我慢した。水の節約のため(トイレの)小の時は流さず、大の時だけ2リットルぐらいの水で流したりと、出来る限り使わないようにしている。
朝7:00に主人が仕事に行く前に、私は近くのローソンに行くことになっていた。外へ出てしばらく歩くと、ドーンと大きく揺れた。思わず引き返そうとしたが、このチャンスをのがすとしばらく行けない。不安な気持ちのままローソンへ。生理用ナプキン、ティッシュ、パンなどを買って帰る。
しばらくしてマンションの隣の部屋の奥さんが、「なにかスーパーの前に人が並んでるようだから、ちょっと様子を見てきます。もし30分経って帰らなかったら、開いているものと思って来てください」と言ってきてくれた。ふだんあまり話しをしていないのに、わざわざチャイムを押して教えてくれた。結局そのあと、開くか開かないか判らないまま、長い列に加わった。重い買い物もするだろうから、昔使ったA型ベビーカー(*1)に、下の子を載せ、上の子も連れて2時間待った。その間にたまたま主人が通りかかってくれたので、グズる下の子を見ていてくれたので楽になった。30人ずつで店の前に販売をしている。奪い合いを覚悟していたけど、みんな静かに文句を言わず待っていた。ジュースは制限なしで、水とお茶は1本ずつ。おかしカップメンなどを買って帰った。

この間、私は必死に気を張っていたようだ。子供は私にばかりひっついて、本を読めとか遊んでくれとか言ってくるが、私にはそんな余裕はない。子供は不安なのだろうが、かまってやりたくても出来ない。ほっと一息ついた時に、本を読んでやるくらいで、せめてカリカリしないように、怒ったり、叱ったり、だけはやめようと決めている。子供なりにガマンしているのが判るから。
まわりの友達がおしめを分けてくれた。ほんとに助かる。こんな時のために私は友達作りをしていたつもりはないけれど、今までがんばって人の輪を作ってきたことが、間違いではなかったなって思う。ここにはこういう人がいて、こんな風に困っている。助けてやろうと思ってくれる。改めて「私はここで生きているんだ、私が知らないところで支えてくれていたんだ。ここに来て10年、私の歩いたところ、私の街になっていた」と気付いた。
しかし私などに比べたら主人の神戸人のキャリアは2倍以上長い、夜となく昼となくしゃべり通しのふた。そうすることでショックを癒しているようだ。でも「かあちゃんはわからない」と言う。まる2日間ショックを受けるのを通り越して、何も考えられなかった。でも2日目の夜だったろうか、今まだ六甲いる両親、姉夫婦家族のことが気にかかる、電話もこちらからは通じない。ふたりで話しているうちに涙があふれてきて止まらなくなった。

両親はふたりで三ノ宮(神戸市中央区の繁華街)へ出かけ、あちこちショッピングを楽しんでらしたし、六甲道(神戸市灘区のJRの駅名)のあたりが好きなことは、私にもよく判っていた。お姉さん夫婦も駅の近くで喫茶店を営み、ふたりの甥っ子もそれぞれの人生を歩き始めていたのに、あの一瞬で壊れてしまった。震災の前日に私たちは久しぶりに店に行った。六甲道駅でお父さんとお母さんが待っててくれて、高架下を通り店へ入り、笑いながら話をしたのに。お兄さん、お姉さん、お父さん、お母さんは泣いていないかもしれない。泣けるということはまだ余裕がある状態なのだから。
私の頭の中には、ずっと以前のお嫁に来てから温かく迎えてくれた、みんなの普通の風景がいい。甥っ子ふたりが今の私の娘ぐらいだったころ、いっしょに食事をした時のこと。三宮で待ち合わせて一緒に買い物をした時のお義父さんの笑い声。西明石にマンションが建ちかけた時、「こちらで一緒に」と話した時、「やっぱり離れたくないわ」とぼうっと仰った。あーこの街が好きなんだなと思ったわたし。10年の記憶の中の○○家(注:筆者の家名)の事だけが思い出されてくる。
かわいそうだと思った。私の家が大丈夫だったからとかじゃない。ここだって被災地で水も出ないが、家も仕事も残っている。先のことが考えられる状況ではないことが、なによりショックだろうと思った。そういうことをただただ泣きじゃくり、しゃべり続けた。主人にハグされながら子供みたいに。33歳になってみっともないが、この時は涙が止まらなかった。「泣いてごめんね」と言ったとき、主人はひとこと「いまのかあちゃんの涙で、たとえこの先ひとりになるようなことがあっても、生きていけるありがとう」と言ってくれた(筆者注:こういう状況とは言え、ようこんなくさいセリフ言ってたなあ………)。私はよそ者、22年間の私が知らない神戸を主人は知っている。「かあちゃんには判らない」と言ったひとことは、私自身どうすることもできないことだった(筆者注:我ながらひでえこと言ってたなあ………)。くやしかった、判ってあげられないことが!支えてあげなきゃ。そう思った
3日目だった。どうも身体がフラフラ、ゆらゆら、ぐらぐらする。そのたびに娘に「揺れてるでしょ?」と聞くと、「揺れてないよ」と言う。あれどうしたんだろう?寝不足で疲れてるのか。地震の恐怖からくるものだと判ったのは、だいぶん後になってからだ(*2)。

*1 A型ベビーカー
A型ベビーカー
*2 どうも身体がフラフラ、ゆらゆら、ぐらぐらする
地震酔い

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local_offerevent_note 2022年3月29日
  • スピノザ

    フィットボクシングでダイエットしてます