私の不登校の記録・前編

1プレ不登校期

今から書く内容は40年余り前の話です。なので現在とはかなり状況が変わっており、社会の受け止め方や、法律や制度も大きく変わっています。ただ、今に続く問題も数多くあり、そういった点を踏まえて読んでいただくとありがたいです。


私は幼いころから小児喘息のため体が弱く、よく熱を出して寝込むことが多かったようです。あまりはっきりとは憶えていないのですが、発作も度々おこし、呼吸が苦しくて頻繁にぜえぜえといっていた事が記憶にあります。ただ物心がついたころには大きな発作を起こすことはなくなった様で、あまり記憶には残っていません。
現在では喘息の子供には積極的に運動や外出をさせるほうが良いという考えになってきていますが、私が幼かった昭和30年代の頃は喘息の子供はあまり何もさせないほうが良いという考え方が一般的でした(昔は喘息のために亡くなった人も多かったようです)。おそらく両親は、この子はそう長く生きられないと思っていた節もあり、また末っ子の長男で、両親が高年齢で産まれたということもあって、好きなようにさせてやれと甘やかして育てられたような気がします。それと親はなんでも先回りしてしてしまう面があり(特に母親が顕著でした)、自立心がなかなか育たなかったように思います。(ただ思春期の頃にそのことに対して嫌悪感を抱くようになり、そのことが中学時代の不登校の原因のひとつになったように思います。)
幼稚園時代の事はあまり憶えていないのですが、幼稚園の出欠スタンプ表を見ると、登園日の半分ぐらいしか出席しておらず、こんなに休んでいたのかと我ながら驚きました。
小学校時代は不登校というほど頻繁に休んでいませんでしたが(月に2、3回程度)、すこし調子が悪かったり、37度程度の微熱が出ても、すぐに休んでいました。親もあまり行けとは言わず、割合休ませてくれました。
小学校3年生の頃、運動が苦手なこともあって体育の時間が嫌いでした。運動そのものというより、号令をかけて行動するような面が嫌だったのだと思います(今もそれはあまり変わってません)。特にドッジボールが嫌いでした。そのため親に黙ってしばらく見学していた時期がありました。これが数ヶ月程続きましたが、その内に親にも学校にもばれてしまい、三者で話し合って体育の時間にちゃんと出るように約束させられました。なぜ見学していたのかを聞かれたと思うのですが、どのような話をしたか憶えていません。また親からは特に怒られはしませんでした。これ以降は、しぶしぶ見学しないで出るようになりました。
引っ込み思案でおとなしい性格の子供ではありましたが、特にいじめられるようなことは無く、のんびりすごしていたような気がします。友達も結構いて、体育を休んだ件以外には、特に問題行動はなかったように思います。運動は全然だめでしたが勉強はそこそこ出来ていたように思います。
当時は周りからは結構「変な」子供と思われていたようで、周りからよく言われるので自分でもそう思っていました。結局、後に分かったことですが、こういったことは発達障害に起因することが多かったのだと思います。もちろん、当時は発達障害などという概念自体もなく、取り立てて問題行動もなく、今と比べて社会全体も寛容な時代だったので、なんとなくやり過ごされてたような気がします。「昔は良かった」とあまり思わないのですが、この点に関しては今より自由だったような気がします。

2不登校期

中学校に進学する時期になりました。当時の神戸市の公立校では、男子は丸刈りにすることになっていて、それがいやなこともあって私立中学校を受験しました。しかし、以前からそうだったのですが、取り立てて受験勉強をすることもなく(そもそもやり方自体がよく分からず、それ自体発達障害のせいだったように思います)、見事に落ちてしまいました。その事がかなりショックで後々自分の考えに影響を与えたように思います。
それでも気を取り直しあまり休まずに通学していました。この中学は公立校にもかかわらず、高校への進学率や部活動をアピールするような学校でした。そんな学校の雰囲気があまり好きになれませんでした。勉学に一応は励んでいたのですが、やはり勉学の仕方がよく分からずあせっていたような気がします。
そうこうしている内に少しずつ成績が下がってきました。今にして思えば、それほどひどく落ちておらず、トップクラスの次の順位ぐらいにはいたと思うのですが、性格上、完璧主義なところがあり、なにかそれが許せないような気がしていました。次第に学校に行くのがいやになってきましたが、それでも夏休みまでは頑張って通学していました。
しかし夏休み明けに学校に行けなくなってしまいました。それでも頑張って行こうとはしたのですが、どうしても校内に入れず校門の前まで行って引き返したことも度々ありました。
その内に朝起きることもままならなくなりました。ただ、不登校によくあるパターンで朝はとてつもなく辛いのですが、昼頃には落ち着いていました。この前後のことは正直あまりよく憶えていません。色々考えていたと思うのですが、恐らくこれも発達障害のために記憶が欠落しているようです。ただ、どうして自分が学校に行けなくなるのか自体が良く分からなったことは憶えていて、当時は不登校以前の登校拒否という言葉も一般的ではなく、家庭訪問に来た教師もどうしてよいか分からず、互いに戸惑っていたように思います。
外出もせずに家にいるだけなので好きなSF小説を読んでいたり、クラシック音楽を聴いて過ごしていました。
このとき読んだSF小説に影響を受け、またこの時代にまだ残っていた学生運動や左翼運動にも感化され、自分をこの社会から自立するために学校を休んでいるんだという理由をつけていくようになりました。しかしそもそもそんな理由で休み始めた訳ではなく、自分を納得させるための後付けだったと思います。
学校の勧めだった思うのですが、心療内科に通わされていました。飲まされる薬がとても強いもので、次第に一日中ボーっとしていることが多くなりました。色々な検査も受けましたが、結果をきちんと教えてもらうことも無く、なにか意味のないことを行っているような気がしていました。
またそれと平行して青少年補導センターに通所していました。この施設の職員は自分の話を良く聞いてくれて、他のところに比べて居心地が良かったです。
親には特に自分の事を語っていなかったのですが、ある日上記のような思想について語りそのために学校を休んでいるのだと言いました。そんな考えを親は受け入れる訳もなく、話は決裂してしまいその後ますます話をしなくなりました。

後編はこちらから。

私の不登校の記録・後編

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local_offerevent_note 2019年10月9日
  • スピノザ

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