阪神淡路大震災の被災体験を振り返って(1)

未明の悪夢

阪神淡路大震災が起きてから今年で25年になります。
私が遭遇したのは35歳の時です。長女は5歳の時で、おぼろげに憶えているそうです。次女は1歳の時で、もちろん何も憶えていません。神戸市の灘区で震災に遭遇した父母は、その後亡くなり今はいません。当時私たち家族は神戸市の西区に住んでいました。
震災の後に生まれた人もかなりの数にのぼります。今「震災」と言うと、東日本大震災のことを思い浮かべる人が多いような気がします。また1995年というと、オウム真理教の地下鉄サリン事件を思い出す人も多いと思います。
少しずつ記憶が薄れていく半面、昨日のことのように思い出すこともあります。
当時のことを思い出しながら書き留めてみようと思います。
震災の前日は成人の日を含む3連休の最終日でした。私たちは西区に住んでいましたが、その日は子供を連れて、灘区にある実家に泊まっていました。
当時、姉夫婦が実家の近くで喫茶店を経営していました。私は自分の親戚に改まって会うのが苦手な面があり、近くまで行っても喫茶店に行くことはあまりありませんでした。しかしその時はなぜか妙に行きたくなり、久しぶりに出向きました。親からも「あんたが自分から行こうって言うのは珍しいねえ」と言われました。おいしいコーヒーを頂き、実家に戻りました。結果的にきちんと建っている店を見たのは、これが最後になりました。
長女が自分だけ残って泊まりたいと言ったので、ひとり残して帰りました。帰ってから熱を出したという連絡がありました。預かってもらっても良かったのですが、なぜか家に帰らせた方が良いと思い、義理の兄に無理を頼んで車で家まで送ってもらいました。
この時実家に残していたら、多分しばらく家には帰れなかったと思います。
後からこのことを思いだして、これが虫の知らせというものかと思いました。
1月17日火曜日の朝。いつものように私たち夫婦が真ん中に寝て、それぞれの脇に娘ふたりが寝ていました。いつもならぐっすり寝ている時間に急に目が覚めました。私はなぜか「来る」と叫んでいました。その声で妻が目を覚ますと同時に、体験したこのない大きな揺れが起こりました。実際揺れた時間は10秒程度だったそうですが、私には無限に続く時間のように感じられました。
夫婦ふたりはとっさに、それぞれ脇にいる娘の上に覆いかぶさりました。ニュース報道などで、災害時に親が子供に覆いかぶさるという話をよく聞いていましたが、自分にそういうことが出来るのかなあと思っていました。実際にその場面に遭遇したら、そんなことを考える暇もなく体が動いていました。
私自身まったく憶えていなかったのですが、妻によると大きな声で揺れの間中、私は「わー」と叫んでいたそうです。記憶に残っているのは、昔のテレビの放送終了後流れる「ザー」と言う音(ホワイトノイズといいます)が、大音量で聞こえていたことです。また何かが崩れている音も聞こえてきました。
私はこの時自分は死ぬのだなあと思っていました。でも覆いかぶさっている子供だけでも助からないかなあと思っていました。混乱している反面、妙に冷静に考えているところもあり、なにかで聞いた「災害時に子供に覆いかぶさる親の体重で圧死することがある」ということを思い出し、少し背中を丸めて直接自分の身体が乗ってしまわないようにしていました。
突然起こった揺れは、突然終わりました。
停電のため最初は家の中の様子がよく見えなかったのですが、少しずつ目が慣れてくると部屋の惨状が明らかになりました。色々なものが倒れていたのですが、特に食器がひどく、ほぼ全滅状態でした。ただ奥の方にしまっていた、客用のおちょこと、とっくりだけ残っていて、こんな状況にもかかわらず笑ってしまいました。
停電していたので、情報が入りませんでした。ラジオもコンセント仕様のものだったので使えませんでした。最初は四国に中央構造線断層という、巨大断層があることを聞いていたので、それが動いた地震だと思っていました。
外に出ると近所の人たちが寝巻着で外に出ていました。見回すとあの揺れにもかかわらず,
自宅周辺には倒壊してるような建物はなく、まあこの程度で済んだのだなあと思いました。ただ停電のため、街灯がついておらず真っ暗で、また近所のスーパーから、おそらく緊急排気システムの作動音と思われる音がしており、とても不気味な感じでした
ラジオを持ってきた人がいて、明石海峡のあたりが震源だというニュースが流れていました。震源地に近いところでこの程度で済んでよかったなあと思いました。
しかしあまりに情報が少ないので、外部の人に聞いたほうが良いのでは思い、京都に住んでいる友人のところに電話をかけました。この後電話のつながりが極端に悪くなるのですが、この時点では簡単につながりました。
電話がつながると、「大変なことになってる」と言われ、神戸中心部の建物が倒壊していたり、大規模な火災が発生しているということでした。最初は信じられなかったのですが、最初の大きな揺れから3時間程度で電気が復活し、棚から落ちていたテレビをつけると幸い壊れていなかったので、早速ニュースを見ました。
最初に見たのが阪神高速が横倒しになっている映像でしたが、見た瞬間何が壊れているのかが判りませんでした。その後市の中心部の三宮界隈で見慣れたビルが倒壊している様子や、下町の中小企業の多い長田界隈の大規模火災の様子が移っていました。なにか現実のことと思われず、夢でも見ているのかなと思いました。
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<神戸市と当時の被災状況>
神戸市は阪神淡路大震災で最も被害の多かった地域です。
震災の時、私たち家族が住んでいた西区は、神戸市の最も西部にある区で、住宅街と工場施設の多い地域です。また私の両親が住んでいた灘区は、神戸市の東部に位置しており、やはり住宅街や工場施設の多い地域です。ただ西区と大きく違うのは、昔からの住宅地なので、古いタイプの木造建築が多いのが特徴です。
震源は明石海峡の辺りでしたが、活断層の位置関係で、距離的に近い西区はあまり被害が少なく、灘区の方が被害が甚大でした。灘区は倒壊被害が多く、東に隣接する東灘区についで死者数が多い地域でした。
震災発生時、報道機関のアクセスの関係で、入りやすい地域が優先的に報道されたため、アクセスの悪かった神戸東部地区は、被害が甚大だったにも関わらず。報道されることが少なく、震災後1か月の時点でも、あまり外部に状況が伝わっていませんでした。
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*本記事のサブタイトルは震災を舞台にしたミステリー小説「未明の悪夢」谺健二(光文社文庫)から取りました。また地域ごとの被災状況は下記のデジタルマップが参考になります。
阪神淡路大震災デジタルマップ

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local_offerevent_note 2020年2月17日
  • スピノザ

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