阪神淡路大震災の被災体験を振り返って(2)

困惑の中での職場と家族の動き

この時、私は身体障害者授産施設(当時)に勤めていました。家から歩いてすぐのところだったので、震災当日ある程度家の片付けをすませてから出勤しました。
特に職場の建物が損壊している様子は見られませんでしたが、出勤してきていた職員に聞くと、リハビリ用に使われていたプールに亀裂が入り、階下にあった理学療法室に水が落ち、水浸しになっていました。入所者の宿泊施設の様子聞くと、ひとりだけ棚に置いてあった小型のテレビが頭の上に落ちてきて、軽い切り傷をおった以外はけが人もなく、ほっとしました。
現場はかなり混乱状態でしたが、職員全員で倒れている棚の片づけをしました。ただ家にいる家族のことも心配なので、上司に相談した上で、その日1日は家と職場を行き来することになりました。
片付けをしている際に、宿泊施設の3階に上がり、何気なく東の空を見ると、空を覆う黒煙がカーテンの様に視界を防いでおり、改めて、とてつもないことが起こっていることを実感しました。ただその時点ではその黒煙の下で何が起こっているかまでは想像できませんでした。
被災当日は、施設はバタバタしている事が多く、情報もあまり入っていなかったので、片付けに終始していました。取り敢えず当日行う行う予定になっていた、研究発表会が延期になったことが、この日唯一決定されたことだったと思います。
1日の仕事が終わって家に帰ると、妻がかなり片づけをしてくれていましたが、やはりひとりで出来ることに限度があり、寝る時間まで一緒に片づけをしました、電気とガスはその日のうちに再開していたのですが、水道が復活しておらず(結局完全に元に戻るまで1か月程度かかりました)、取り敢えず水を買いにコンビニに行きましたが、品薄であまり大量には買えませんでした。子供たちは学校が休みということもあってか、むしろ楽しそうにしていました。ただこの後次女が少し経ってから、お風呂場におばあさんの幽霊がいると言い出すきことがありました。通っていた心療内科に相談すると、子供にはよくあることなので、言っていることを否定しないで、様子を見ていれば大丈夫と言われました。実際1か月程度で収まりました。
それと当日は生協の共同購入の配達日だったのですが、さすがに今日は来ないだろうと思っていたら、時間通り来たので驚きました。これも後に判ったことですが、こういった災害時に食料配布を必ず行うと、神戸市と提携を結んでいたそうです。
夜になり床に着いたのですが、電気を消すのが怖くて、一晩中電気をつけ寝ました。近所に住む人で、家にいるのがどうしても怖いので、自動車内で寝ていた人もいました。
これから一体どうなっているんだろうと思いながら、震災の1日目が終わりました。
時間が経つにつれ少しずつ色々な情報が入ってきました。マスコミによる情報以外に、福祉施設間のネットワークから入ってくる被災状況の情報もありました。ただこれらも震災の全体像を理解できるものではなく、特にマスコミからの情報は、ニュースバリューを優先した偏った情報が多かったように思います。
いわゆる口コミ情報も入ってきましたが、大半はデマ情報でした。例えば近所のスーパーの3階部分の床が壊れ、2階に落ちているという話が伝わってきましたが、実際にはそんなことはありませんでした。それと明石海峡大橋の工事が地震の引き金になったという話が伝わり、職場の同僚がそれを信じて真面目に話していたのがおかしかったです。時間が経つにつれおかしな情報は少しずつ減っていきましたが、それでも地震兵器が発動したとか、オウム真理教がそれを作ったとか、今から考えるとバカバカしい話が、長い間身近でも流布していました。
最初は前例のない災害に、職場もどう対応してよいか判らないところがありましたが、情報と共に様々な機関が動き出し、それに対応した活動が行われるようになりました。いくつかの活動を紹介すると、
・支援物資の整理と活用。
・自衛隊の受け入れ
・ボランティアの受け入れ
・施設内の宿泊施設への被災障害者の受け入れ
などが挙げられます。
支援物資に関しては他の地域でもあった問題のようですが、被災地側が求めているニーズと、実際に送られてくる物資に齟齬がありました。特に保存のきかない食料品が大量に贈られてきて、善意で送ってくれるのは判るのですが、正直処分が大変でした。また取り敢えず支援物資が贈られてきたものの、行政もどう配分してよいかわからず、体育館などに物資が滞留し、早いもの勝ち状態で物資を取りにいくということもありました。
後にある識者の方が、被災地の経済が崩壊している訳ではないから、物資より現金を送った方が合理的だという発言をされていました。実際その通りなのですが、当時は皆そこまでは思い至れなかったと思います。
自衛隊もかなり来ていましたが、負傷者の病院への搬入の仕事が多かったのではないかと思います。
ボランティアの受け入れに関しては、激震地帯ではないこともあって、それほど行っていませんでした。ただ後に判ったことなのですが、私の通っていた明石駅前の心療内科が医療ボランティアの中継地点になっていました。これも後に医師自身から聞いた話ですが、被災当日に普通の感じで患者が来て、「今日は診察ありますか?」と言われた時は、怒って帰るようにいったそうです。とても温厚な医師でしたが、さすがに腹が立ったそうです。まあそういう障害なので仕方がありませんが。
近隣の被災障害者の入所施設への受け入れもそれほど多くありませんでしたが、かなり遠方から来られた方がいて、1か月程度居られました。
前例のない体験ということで、最初は試行錯誤が続いていましたが、次第に効率の良い動きが出来るようになりました。通所している利用者はしばらくお休みということになりましたが、入所している利用はそういう訳にもいかないので、通常通りの生活支援をしていました。

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local_offerevent_note 2020年2月17日
  • スピノザ

    フィットボクシングでダイエットしてます