阪神淡路大震災の被災体験を振り返って(3)

激震地を訪れて

私の周辺では、大規模な被害がなかったこともあり、職場も家庭も、1週間程度で落ち着いてきました。しかし激震地の様子はうかがい知れず、灘区に住んでい入る両親や姉夫婦のことも気がかりでしたが、アクセスが切断されているためどうしようもありませんでした。また電話もほとんどつながらず、どういう状況かを尋ねることが出来ませんでした。
ただまだ電話が繋がりやすい段階で、姉夫婦の喫茶店とマンションが倒壊していることは確認できていました。
震災から20日ほど経っても、一向に被災状況の情報が入ってこず、特に実家のあった灘区周辺の様子が判りませんでした。もうこれは自分で現地に赴いて様子をみるしかないと思いました。鉄道網はすべて寸断されていましたが、明石港から神戸港への臨時特別便のフェリーが出ていることを知り、ひとりで神戸市の中心部に向かいました。
フェリーは通常淡路島航路のある港から出ていました。しばらく乗っていると神戸市垂水区(西区の東隣)の様子が見えてきました。大半の家の屋根にブルーシートがかかっていましたが、建物の状態がどうなっているかは見えませんでした。
1時間程度で神戸港に着きました。本来そこに寄航する船でないせいか、接岸した突堤と高さが違うため、はしごをかけて下船することになりました。
港は、三宮・元町といった神戸の主要繁華街まで歩いて直ぐの所にあります。なにげなく上を見ると、バイパス道路があり、ここは壊れてないのかと思いながら良く見ると、橋げたが少しずれていました。
道々様子を見ながら歩いていくと、倒壊している商店街が次々目に入りました。並びあった建物が、互いにもたれあうように崩れており、初めて見る有様に言葉にならない衝撃を受けました。
そのまま歩いていくと繁華街の中心部に着きました。有名な三宮商店街に行くと通行止めになっており、中を覗き込むと建物をつないでいる陸橋が落ちていました。通路は瓦礫が散乱しており、建物自体もあちらこちらが壊れていました。
昼ごはんの時間になったので、食堂を探したのですが、開いている店舗はなく、店の前で屋台を出しているところがありました、その内のひとつで食事を採ったのですが、何を食べたのか思い出せません。
尿意をもよおしたので、トイレを探したのですが、公衆トイレは水が使えないので、使用できませんでした。申し訳ないと思いましたが、人通りの少ない道を選び、こっそりと済ませました。今考えると女性はもっと大変だったと思います。
三宮界隈をしばらく歩いた後、灘区の方へ向かいました。灘区は元々実家があった所でしたが、両親が商売を辞めた際に店と家を売り払い、近くの賃貸マンションに住んでいました。姉の夫は元々両親の営んでいた商店の従業員でしたが、姉と結婚した後に店を辞めて両親の住む場所からあまり遠くないところで、喫茶店を経営していました。
市バスは比較的時間通りに運行していたので、バスに乗って灘区に向かいました。バスの窓から外を見ると、灘区に近づくにつれ、全壊した家屋が少しずつ増えていきました。
時間の都合もあったので、両親や姉夫婦には会わず、強行軍であちらこちらを見ていきました。まず元の実家の近くにあるJR六甲道駅に向かいました。駅は完全に倒壊しており、私にはなぜか朽ち果てた龍の姿を連想しました。この駅はJRの復旧の際に、最後まで。残されていました。当初は6月頃に復旧するとの話でしたが、実際は3月頃に復旧しました。最近この駅の復旧をテーマにしたドラマを観ましたが、駅を一から建て直すのではなく、倒壊した建築物をそのままジャッキで持ち上げるという、過去に前例のない方法を行い、その事が復旧を早めたということを初めて知りました。
灘区は昔から北側に行くほど高級住宅街で、南に行くほど下町になるという街でした。そしてその下町ほど、古くからある木造家屋が建ち並んでいました。その下町を走る阪神電車の新在家駅に向かいました。見上げると高架が完全に寸断されており、すでに20日あまりの時間が経っていたので、瓦礫は無くなっていました。
その後駅の周辺を歩き回りました。建ち並ぶ家々は全て倒壊しており、しかしまるでミキサーでかき回したように瓦礫が散乱しており、元々の家の境界線が分からなくなっていました。20日あまり経っているにも関わらず、全く手付かずの状態でした。正直ここまでの被害は予想しておらず、激しく感情が揺さぶられ、茫然と見ているしかありませんでした。瓦礫の上にはところどころに花束が添えられていて、ここで起こったことの意味を改めて悟りました。
その後、姉夫婦の喫茶店に向かいました。店舗の入っているマンションごと倒壊しており、つい最近ここを利用したことが信じられませんでした。
もうこの時点で夕方近くになってきたので、帰り支度をすることにしました。再び市バスに乗り三宮の西側にあるJR神戸駅に向かいました。駅の近辺は見たところあまり倒壊している建物は見られませんでした。
当時、神戸市市営地下鉄が、西区の西神中央から新幹線が停車する新神戸駅までつながっていましたが、震災のため西神中央から垂水区にある板宿という駅までしか運行しておらず、それより東側は不通状態でした。神戸駅から板宿駅まで通じる市バスがあったので、それに乗り帰ることにしました。
しかしその帰路は、当時限られた通行可能なルートであった、市街地の北部にある六甲山系を通って、市の外側に出るルートの途中であったため、とてつもない渋滞に巻き込まれてしまいました。
バスは遅々として進まず、時間をつぶすために買った文庫本も読み終わり、2回めを読み始めました。我慢できなくなった乗客が次々に降りていきましたが、他の交通手段がないので、私は我慢して乗り続けました。1キロぐらいの道を3時間ほどかけると、渋滞が途切れ、ようやく普通に走り出しました。遅れを取り戻すためか、おそらく通常より速いスピードでバスは走り出しました。山道でカーブの多いところだったので、ほとんどジェットコースターの様な感覚で走り続け、乗客からは歓声さえ漏れていました。
予定よりかなり遅く板宿駅に着きました。家に電話をかけると、連絡がないので心配していると言われました。その後は地下鉄と市バスを乗り継ぎ帰宅しました。
この後も色々なことがありましたが、それはまた別の機会に書くかもしれません。
震災のあった1995年はバブル崩壊の数年後で、経済状態の悪化がより復興を遅らせたようです。25年経った今、街並みは復興しましたが。問題は未だに山積み状態です。また私にとって、自分が子供時代を過ごした街並みが、全くと言っていいほど無くなってしまったことに一抹の寂しさを感じます。
震災体験で感じたのは、人間にはコントロールできない現実があること、それと「自然に優しく」と言いますが、自然は決して人間には優しくないことを知りました。
25年前の経験なのでかなり忘れていることも多く、資料で確認しながら書き進めましたが、誤っている記述もあるかもしれませんが、その点はお許しください。
*NHKで放送されていたドラマ「心の傷を癒すということ」が阪神淡路大震災を取り上げています。このドラマは震災時に被災地で救援活動を続けた在日韓国人の精神科医 安克昌氏の著作「心の傷を癒すということ」の基に作られたドラマです。震災時の状況が細やかに描かれていて、当時の状況を知るには良いドラマだと思います。放送はすでに終了していますが、NHKの配信で視聴が出来ます。
また神戸新聞の特集記事もリンクしました。
「心の傷を癒すということ」(作品社)
神戸新聞の特集記事

ブログランキング・にほんブログ村へ
local_offerevent_note 2020年2月25日
  • スピノザ

    フィットボクシングでダイエットしてます