就労支援の仕事を振り返って

私は現在、精神障害者としてオフィス・ジョブエルで仕事をしていますが、それまでの30年間あまり、福祉関係の仕事をしていました。法人で複数の施設を経営するところだったため、複数の職場に配属されましたが、時間的に最も長く配属されたのが、障害者職業支援施設での勤務でした。以前「障害者の職能評価について」という記事で職業能力の評価を主とする施設で働いた経験について書きましたが、今回は「身体障害者授産施設」というところで働いた経験について書いてみます。前述の記事の施設との一番大きな違いは、短期間の訓練施設ではなく、工賃の出る「福祉的就労」を行っているという点です。
現在、身体障害者授産施設という名称はあまり使われておらず、今回記事にする職場も今は「就労継続支援(B型)」の名称に変わっています。単に名称の変更だけでなく、2006年に施行された障害者自立支援法により、これまでの「措置」の考え方から「支援」考え方へ変わっています。

この施設は神戸市の西部に位置しており、比較的交通の便の良いところにありました。入所が基本でしたが、通所の利用者もおり、全体で50人ほどの利用者が在籍していました。身体障害者手帳を持つ方が利用できる施設でしたが、同時に知的障害者手帳を持っている利用者や、精神障害を持っているいわゆる重複障害の利用者が多かったです(この時代はまだ精神障害者保健福祉手帳がありませんでした)。特に組立工作科に関しては、身体障害は比較的軽度で、他の障害が中程度の利用者が多かったです。これより前の時代は、身体障害のみの利用者が大半だったのですが、1990年代には、職安を通しての一般就労や、障害者訓練校の利用も増えており、そちらで対応の困難な利用者が増えていました。
この当時施設は4つの職業部門に分かれており、彫金課、縫製課、軽印刷課、組立工作課がありました。彫金科は主に銀細工のアクセサリー作っていました。縫製科は近くにあるアパレル企業から衣服の素材の縫製を請け負っていました。軽印刷科は同じ敷地内にある別の施設の印刷物や、年賀状・名刺の印刷を主に行っていました。組立工作科は企業から委託を受けた、製品の袋詰めや、部品の製作などを行っていました。彫金科と縫製科は現在はなくなっており、代わりに清掃科やパンとお弁当の製造部門が出来ています。

働いているの方には一か月単位で工賃が出ていました。工賃の額は生産量に比例して出される、いわゆる「出来高制」でしたが、ひとつの作業を複数の利用者で行うことも多いため、ある程度施設側で調整を行っていました。工賃の額には幅があり多い方では月10万円程度、少ない方では3000円程度でした。
私が勤務していたのは組立工作科でした。その時々により作業内容は変わっていました。継続して行われていたものとして、自転車のスポーク取り付け作業と、銀行などで配られるタオルの袋詰めがあります。それ以外で臨時で入ってくる仕事も多くあり、保険証の裁断作業を請け負ったこともありました。ただこれだけでは工賃があまり上がらないため、自社ブランド製品も作りました。そのなかで一番多く行っていたのは郵便局の販促品の製造でした。市販のごみ袋やタオルを購入し、「粗品」と書いた「のし」をつけ、袋詰めや箱入れを行うものでした。これの見本をもって地域の特定郵便局に営業をかけた販売をしていました。郵政職員のOBによる販促品製造企業もあったのですが、小口で迅速に対応できることで重宝され、一時期は工賃収入の大半を占めていた時もありました。
作業能力を上げるために、ノルマや時間を設定して作業を行っていました。また作業の開始や終了の報告を重視し、またチームを作りチーム内での割り振りを任せて、自発性を促す支援を行っていました。一方で請負企業の受注をこなさないといけないため、職員も利用者と一緒に作業をしていました。これは同時に同じ作業を行うことにより、利用者のモチベーションを高めるという側面もありました。

利用者には、家族や人間関係に問題を抱えている方が多く、将来に不安を抱えている方が多くいました。作業をしながらや作業外の時間を使って話を聞きアドバイスを行うこともありました。休みの日に出勤して1日話を聞くこともありましたが、ちょうど子育ての時期だったために、妻からもう少し考えてほしいと言われたこともありました。またある利用者の方と、自分の妻が身体障害者であると話した際に、特に興味を持たれなかったのですが、私が定時制高校出身であることを話すと、その方も学歴で苦労していたので、「先生も大変やったんやねえ」と言われそのあと話が弾み、障害者も障害のことばかりを考えているわけではないのだと気づかされることがありました。
またちょうどここに勤務していた時期に妻が手術をすることになり、私が娘の幼稚園と保育園の送り迎えをすることになったので、上司に頼んで早めに帰らせてもらうことがありました。今でもなかなかこの辺りのことを理解してもらえない職場が多いのですが、1990年代にこれだけの配慮をしてくれたことは、今から考えるとかなり先進的な職場だったと思います。
障害者就労の考え方は大きく変わってきており、これまでは制度が用意した流れに乗って行っていましたが、近年は障害者自身の希望に沿いながら、就労支援を行うやり方が主流になってきました。また障害者だけでなく、仕事の考え方自体も「手に職をつける」タイプの仕事から、リモートも含めた多面的な仕事に変わってきています。振り返れば1990年代はまだ過渡期の時代で、現在行われている方法を、試行錯誤で行っている段階だったと思います。今は利用者の立場に立ちながら、これまでの経験を活かしながら、私なりに発信を行っていこうと思っています。

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local_offerevent_note 2020年9月1日
  • スピノザ

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