あえて何もしないという選択もあり?

「ご飯できたからテーブルを片付けて」、「お父さんがお茶飲み終わったから湯飲みを持ってきて」。

これ、筆者が生前の母に言われていた言葉です。端的に言えば、「それくらい察しなてやりなさい!」です。

法事で親戚が集まれば、姉共々「お客様にお茶を持って行って」などと言われていました。

昭和の田舎で育った筆者の母にとっては、家事も法事の雑用も女性がやって当然という考えや、姉と筆者が将来結婚した時に嫁ぎ先で困らないようにという思いもあったかもしれません。

昔は当たり前だったことも、時代が変われば当たり前でなくなることは多くあります。筆者の母と同じ境遇でも、時代の変化に応じて柔軟に考えを変えていらっしゃる方は大勢いらっしゃることでしょう。

昭和の時代では、「女性が察して家事や法事の雑用をやる」のが当たり前だったかもしれません。しかし筆者には、「平成の今、それって本当の意味で男のためになるの?」という疑問がありました。

生涯独身の男性も、奧さんが先に亡くなり子供も独立して1人暮らしになる男性も珍しくないご時世なのに、女性が察して何かをしても、最終的に何もできなくて困るのは男性なのではないのかという疑問が常に頭にありました。

そのため、「結婚したら、旦那にも自分の身の回りのことと家事をやらせよう」と誓っていました。今のところ結婚の予定はありませんが、この誓いは変わっていません。

さて、平成も終わり、時代は令和になりました。

母亡き後、筆者は様々な場所で、察して気を利かせてきましたが、これをやっていて気が付いたことがあります。

察して何かをすることは「ものすごく疲れる」、「見返りを求めてしまう」、「自分のことに集中できない」という3つにはまってしまうということです。

そして筆者は思いました。「察しても何もしなければいいのでは?」と。状況は理解しても、あえて何もしないことが相手のためになることがあるのではと思い始めました。

実際に筆者があえて何もしない選択をすると、周囲の人たちは、自分で様々なことをやり始めるようになりました。やはり、時には察してもあえて何もしないことが大切なこともあるのだと最近は実感し始めました。

この「察してもあえて何もしない」という考えは、筆者が女性の権利や地位向上、男女平等が認知され始めた平成の時代に生まれ、今の令和の時代に生きているからこそできた選択だと思います。「女性は察してあれこれやるもの」という昭和の価値観で人生の大半を生きてきた筆者の母にはこの選択は分かっていても難しかったかもしれません。

ただ、人間は必要に迫られれば何でもやりますし、自分でやらなければ身につかないものもあると考えると、「察してもあえて何もしない」という選択は、時に自分だけではなく相手の成長のためにもなるように思い、令和の時代にはありだと思います。

ブログランキング・にほんブログ村へ
local_offerevent_note 2020年11月24日