映画「福田村事件」を観て

はじめに

横浜にある虐殺の慰霊塔
【画像引用 個人ブログ】
関東大震災(1923)において、日本人による朝鮮人に対する虐殺行為はよく知られています。天災のような混乱時には、日常を逸脱した行動が見られることがありますが、これはいわば最悪のケースと言えるものでした(阪神淡路大震災や東日本大震災でこういったことにならなかったのは、日本人の差別意識が変わったことと、情報の伝達情報が増えたことが大きいとおもぃます)。
発端は「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れた」というものです。しかし実際にはそのようなことは起こっておらず、民族差別の感情を持った民衆による被害妄想的な虐殺行為、警察の黙認(1918年に起こった朝鮮独立を目指す決起(いわゆる三一事件)に対して、警察官僚を中心に朝鮮人に対する偏見による)、朝鮮人が暴動を起しているという事実に基づかない新聞の煽り報道、等が重なって、数千人に及ぶ死傷者が出ました。長らくこの事実は隠蔽されてきましたが、戦後になって様々な資料や証言によって事実が明らかになりました
しかし近年、一部の保守派論客や、それに便乗したネット右翼のデマ情報などにより、「虐殺はなかった」という論議が出るようになりました。しかし警察の公的な文書にさえ載っている事実を無視し、当時の新聞報道にその根拠を求めました。しかし普段から「新聞の報道は信じられない」と言いながら、この件では新聞報道をうのみにするという、明らかに矛盾した言動が見られました。こういた動きもあるためか、マスコミはこの虐殺について触れたがらず、なかなかその実態が知られないまま、議論だけが先行するという不思議な事態になりました。
その中で映画「福田村事件」が公開されました。しかもこの映画は少し違った視点から作られました。それは「朝鮮人と誤認された日本人が多く襲われた」ということです。

福田村事件とは

福田村事件慰霊碑
【画像引用 楽天ブログ】
映画「福田村事件」あくまでフィクション作品ですが、福田村事件は実際に起こった事件です。
1923年9月1日に関東大震災が発生しました。その直後から緊急勅令により関東一円に戒厳令が発動されました。その際に警察と地域で編成された自警団が治安維持活動を行うことになりました。その際に上記の記述のように朝鮮人による暴動を想定した活動が行われました。
事件が起こった千葉県東葛飾郡福田村(現野田市)でも自警団活動が行われていました。9月6日同地を家族親戚で売薬の行商する一団が訪れました。その際他の土地から来たことと、言葉の訛りが違う(香川県の出身者です)ため朝鮮人ではないかとの疑いが持たれました。村長は「日本人ではないのか」と言いましたが、自警団の中核をになう、村の在郷軍人会のメンバーが「朝鮮人に間違いない」と断言しました。行商するる団体は登録が義務付けられらていたので、駐在所の巡査が本署に徒歩で問い合わせに行きました。しかし帰りを待ちきれない村民が暴徒化して行商人を襲い始めました。
惨劇は長時間に及び、猟銃、棒、とび口等で襲い掛かり、行商団15人の内子どもを含めた9人が殺害されました。その中には妊婦もいました。その後よう警察本署から警官が来て、間違いなく行商人であることが証明されましたが、時すでに遅く、それでも残った6人は警察によって保護され、殺害を免れました。
その後行商人の一団はいずれも被差別部落出身であることが判りました。その後被害者の遺族が多くを語らなかったのは、差別による二次被害を恐れてだったのではないかと思われます。
加害者側は自警団の8人が検挙されました。行商人が暴力を振るったわけでもないのに、村長の制止も聞かず、一方的に虐殺行為を行ったことで、被告には騒擾殺人罪が適用されました。裁判では被告は自らの行為を正当化する証言を行いました。また予審判事が被告に同情的な見解を新聞で公表したり、村会議で裁判費用を作るために、村民に見舞金の名目で供出が行われました。
被告には3~10年の事件判決が下されましたが、2年5か月後昭和天皇即位の恩赦により釈放されました。被告の中にはその後村長になったり、市議会議員になった者もいたそうです。
その後太平洋戦争後も事件は忘れられたままでした、遺族の働きかけで1980年代からようやくマスメディアにも取り上げられるようになりました。その後は野田市は事件の存在を認め、2000年に犠牲者追悼式が行われ、2003年には慰霊碑が建てられました。その後2022、2023年にも追悼式が行われ、2023年に事件後100年が経ったこともあり、市長により正式に哀悼の意が表明されました。
この事件の特異性は、朝鮮人暴動のデマに乗せられて、虐殺行為が行われましが、実際に殺害されたのは日本人だったということです。また村長や警察が抑制的な対応をしたにも関わらず、在郷軍人会を中心とした村民が、被害妄想的な行動を行ったことです。
映画「福田村事件」はこういったことを踏まえつつ、虐殺にいたるプロセスを描いたものです。

森達也監督について

森達也監督
【画像引用 クーリエ】
映画「福田村事件」は森達也(1956~)監督による映画作品です。森監督は、学生時代には自主映画の制作サークルで活動していました(同時期には後に監督になる黒沢清(1995~)などもいました)。一時は役者を目指しましたが、その後職を転々として、テレビ番組制作会社に就職しました。数多くのドキュメンタリー番組を制作しましたが、オウム真理教についての番組を制作する中で、制作会社の中での活動に限界を感じて、フリーランスの監督になり現在に至っています。
代表的な作品としてミゼット(こびと)プロレスを描いた「ミゼットプロレス伝説」(1992)、オウム真理教を信者の視点から描いた「A」(1998)「A2」(2001)、自称エスパーたちに人生を描いた「職業はエスパー」(1998)、放送禁止歌をテーマにした「放送禁止歌」(1999)、佐村河内守のゴーストライター問題を扱った「FAKE」(2014)などがあります。またそういった著述活動も行っています。
権力の横暴に批判的な視点を貫いていますが、一見市民の立場に立った活動に対しても、あまりにも一方的な流れに対しては、批判も辞さない視点で描いています。特にオウム真理教事件に対して、あまりにも信者側が一方的に批判されることに疑問を感じ、上記の映画「A」を制作しました。しかし監督としては冷静な視点で描くことで、事件の大きさを描こうとしたのですが、被害者弁護団から「オウム真理教を利するものである」との理不尽な抗議を受けることになりました。このように、一般にはあまり取り上げられることがないテーマや視点で作品を作ることが多く、絶賛もされるが批判も多いという立ち位置で作品を作り続けています。

映画「福田村事件」のあらまし


映画のワンシーン
【画像引用 リアルサウンド】
中国に住んでいた主人公は、独立運動を行った朝鮮人に対する日本軍による虐殺事件(実話)を見て、自分がいる場所はないと思い妻と共に故郷の福田村に帰りました。9月1日に関東大震災が発生し、この際朝鮮独立運動の存在を危惧した政府が、マスメディア
(当時は新聞が主)を利用して、「震災後の混乱に乗じて社会主義や朝鮮人が暴動を起している」とのデマを流しました。実際、東京を中心に社会主義者や朝鮮人が多く虐殺されました。
この報道は福田村にも伝わり、在郷軍人会のメンバーを中心に自警団を作り、暴動への対応を行おうとした。この時期にたまたま売薬を行う行商人の集団が四国から福田村を訪れた。彼らは家族・親戚で構成されており、またいずれも被差別部落出身の人たちでした。行商人たちは地元の言葉と違うため、朝鮮人との疑いがかけられました。それに対して行商人たちは自分たちの商いは、行政からの許可を受けているからそれを確認してほしいと頼みました。そのため村の駐在が、村の本庁に行って確認しているから待っていてほしいと村民に伝えて出かけました。しかし疑心暗鬼に陥った村民は駐在の帰村を待たず行商人たちに襲い掛かりました。
この映画のポイントはいくつかあります。まず主人公夫婦や村長などの「知識人」的な存在が描かれますが、彼等の言葉は村民の心に届かず、虐殺の傍観者に留まります。一方在郷軍人会の老人たちは、軍隊経験を笠に着て強権的にふるまおうとします。しかし彼らのふるまいは、自分たちの存在がすでに村の中では「役立たず」的存在であることを、認めたくない虚栄心から出ている側面があることです。またこの両者とは別に村のはみ出し者的存在(劇中では渡しの船頭を行っている男とその不倫相手)は事態をかなり客観的に見ており、虐殺を止めようとします。
しかしこれらの人々の思いを巻き込みながら虐殺が行われてしまいます。映画でも駐在が帰村し彼らが間違いなく行商人であることを村民に伝えましたが、その時にすでに虐殺は終わっていました。
この映画は性的な場面と、虐殺シーンのためか、PG12指定映画になっています。虐殺に至るプロセスが静かに描かれますが、虐殺が始まると太鼓の連打の音楽をともない、爆発したように虐殺シーンが描かれます。10分以上に渡り目を覆うような惨劇が描かれます。正直このシーンは観る人を選ぶ内容ですが、監督にとってここは絶対に外せないシーンだったようです。
演技人の演技も素晴らしく、過去の罪を背負い苦悩する中国帰りの男を井浦新(1974~)、その妻を田中麗奈(1980~)、知識人的な気弱さを拭えない村長を豊原功補(1965~)、物事を斜に構えてみる村の船頭の東出昌大(1988~)、行動的なため真っ先に殺害される行商人のリーダーを永山瑛太(1982~)、権威主義的な在郷軍人会のリーダーを水道橋博士(1962~)、他にも実力派の演技人が顔を揃えています。

おわりに


撮影の様子
【画像引用 京都新聞】
インタビューなどで監督が語っているところによると、最も描きたかったのが「加害者」の視点だったそうです。こういった映画では被害者側の視点が強調され、加害者は顔の見えない存在として描かれることが多いです。しかし加害者もまた普通の人間です。彼らも日常の生活の中では、よき家族として過ごしているはずです。しかし災害という極限的情況の中で被害妄想と疑心暗鬼の中で、虐殺が行われてしまうプロセスが克明に描かれます。この映画を観ている私たちも、こういった情況の中では加害者の立場に立つかも知れないという現実を監督は描きたかったのだと思います。
現代の日本ではSNSの存在もあり、こういったことが起こる可能性は低いように思えます。しかし一方でネットが流すデマ情報に踊らされ、根拠のない誹謗中傷が飛び交う現実もあります。この映画こういった現実に、誰もが傍観者ではいられないことを突きつけているように思えます。
映画の最後のところで警察の取り調べを受ける生き残った少年が、人数で語ろうとする警察に対して、殺されたひとりひとりの名前を涙ながらに語ろうとするシーンで、筆者もまた涙が止まりませんでした。決して観やすい映画ではありませんが、多くの人に観てほしい作品です。

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local_offerevent_note 2023年12月26日
  • スピノザ

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