明石城の歴史をたどる

兵庫県明石市。この街には標準時刻を決める子午線135度が通っています。柿本人麻呂が歌を詠み、紫式部が源氏物語の舞台のひとつにした歴史ある街です。明石駅の目の前に明石城があります。今回は、明石城が建てられるまでの経緯と初代藩主についてお話します。

○明石城が建てられた理由

時代は1615年まで遡ります。徳川幕府は、「大坂夏の陣」で豊臣家を倒しましたが、大坂から西には勢力の強い外様大名(※1)が多く存在し、大坂から西には譜代大名(※2)がいませんでした。反乱を起こすかもしれない大名たちを監視するための城が必要でした。そのために建てられたのが明石城です。1617年から建設が始まり、1619年に完成しました。建設の際には幕府の金銭的な援助があり、設計などには当時の姫路藩主であり、初代明石城城主の小笠原忠真の正室の父親だった本多忠政の協力がありました。幕府からの援助の金額は、現在の価値に換算すると、約31億円です。それだけの金銭的な援助を幕府が行うほど、明石城の建設が幕府にとって重要だったのだと思います。現在の明石城では、2つのやぐらが江戸時代から現存しています。この2つのやぐらは国の重要文化財に指定されています。

※1 「関ヶ原の戦い」の後に徳川幕府に従った大名のことです。元々は「関ヶ原の戦い」で豊臣軍に付いていた大名も多く、石高は高かったものの、徳川幕府から警戒されていました。幕府の要職には就けず、領地も江戸から離れた場所にありました。仙台の伊達家、薩摩の島津家、加賀の前田家が有名です。

※2 「関ヶ原の戦い」以前から徳川家に仕えていた家臣から選ばれた大名のことです。石高はあまり高くはありませんでしたが、幕府の要職に就いていました。小笠原家や本多家の他に、井伊家や酒井家が有名です。

初代城主 小笠原忠真(おがさわら ただざね)

明石城の初代城主は小笠原忠真です。忠真は、徳川家康と織田信長のひ孫にあたる譜代大名でした。「大坂夏の陣」で父と兄が戦死したため、小笠原家の家督を継ぎました。忠真は、「大坂夏の陣」で活躍したことや徳川家と徳川家の重臣であった本多家の双方の親戚関係であることから、能力も信頼も充分でした。当時は、戦で敵を討ち取ることが重要な能力とされていました。明石城城主は、勢力を持つ外様大名の監視する役割も兼任していますので、任命するには、能力が高く幕府にとって信頼のおける人物でなければいけません。忠真はその点において、明石城城主には適した人物でした。忠真は城主になって以来、税金を免除して住民を集めました。また、区画整理にも力を入れ、明石が栄える基礎を作り上げました。(人物相関図では忠政ですが晩年に名前を変えて忠真になりました。)

【画像引用 明石城 ホームページ】

幕府や藩主というと、難しい話と思う方もいらっしゃると思いますが、このように考えれば分かりやすいかもしれません。

・徳川幕府→徳川家が経営する企業

・徳川家→「徳川幕府」の創業者一族

・藩→「徳川幕府」の支社

・城→支社のオフィス

・城主→支社長

・外様大名→吸収合併や買収などで「徳川幕府」の支社長になる。警戒されているため幹部への出世は見込めない。

・譜代大名→「徳川幕府」に入社し支社長へ。幹部に出世の可能性もあり。

明石城のその後

初代城主の忠真は、明石の街を作り上げた実績が幕府に認められ、1632年に豊前小倉(現在の福岡県)に転封(※3)します。その後の半年間は、明石城は幕府の直轄地になります。その後の明石城は様々な譜代大名が城主となり、1682年以降、1869年の廃藩置県まで、親藩(※4)だった越前松平家が城主を代々務めました。親藩が城主を務めたことは、徳川幕府の時代が進むにつれて、明石城がますます重要な存在になってきたということでしょう。

明石城は1873年に廃城令(※5)により廃城、1875年に建物の民間への払い下げが決定します。この時の元藩士たちの運動により、2つのやぐらが残されることになりました。今でも私たちが2つのやぐらを見ることができるのは、このときの運動があったからです。

※3  幕府の命令で大名の領地の場所が変更になることです。「国替え」と呼ばれることもあります。転封の理由は様々ですが、忠真の場合は明石での実績が認められ、より西側で外様大名を監視するための転封で、石高も増えました。

※4 徳川家康の男系から始まる家系の大名です。官位などで優遇される反面、跡目争いを防ぐために幕末まで幕政に参加することはありませんでした。

※5 明治時代に幕府時代の城をどうするかを決めた法律です。多くの城が取り壊しや売却となりましたが、当時の人々の活動により一部や全てが現存している城もあります。

※6 会社でたとえるなら、転封は転勤、幕政は企業経営、親藩は経営者(徳川家)の親族で優遇はされているものの経営には参加していないと考えると分かりやすいと思います。

普段何気なく見ている明石城も、調べてみたら様々なことが分かりました。徳川幕府が明石城をとても重要視していたことに驚きました。明石城もこれから姫路城と同じくらい有名になればと思います。

画像引用

明石城 ホームページ

https://www.akashijo.jp/

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local_offerevent_note 2019年10月22日